カードゲームを止めました。

新しい趣味を探してます。

エッセイっぽい文章

Twitterを始めて8年目になりました。
ある日、15の自分が5年後の未来へ当てて書いた手紙を読んでから、はや数年。
本日も変わらぬ日々を過ごしています。

歳を取れば大人になり、大人になれば親となる。
昔はそんな風に思っていました。

何故そんなことを信じていたのか不思議なものですが、 あの頃は全てが右肩上がりの毎日でしたので、歳を取ればそれはもう立派な大人になっているはずだと。
まるでペンギンハイウェイのアオヤマ君ですね。

少し話を戻します。
冒頭で「変わらぬ日々」を過ごしていると書きましたが、果たして本当にそうでしょうか。
私は2つの理由によって、そう錯覚しているのではないかと思います。

1つ目は、日常は変わらないという点です。
例えば、昨日の今頃はポケモン剣をしていましたが、今はブログを書いています。
私はそれを「変わらぬ日々」と解釈していたのです。

「変化」というのは、物事を比較した際の差異を表す言葉です。
つまり、私はポケモンとブログに差異が無いと判断していたことになります。
何故でしょうか、ゲームとブログの執筆は明らかに違います。

では、ゲームとブログの執筆を同じ物にするためにはどうすればよいでしょうか。
同じ物であるなら共通点があるはずです。
そして、共通点があるのであれば、それらを一つのまとまりとして括ることができます。
それが共通化(抽象化)です。

ゲームもブログも、PCやゲーム機があればいつでもできることですよね。
そして環境的にも、同じ席に座って同じモニターを見ながらそれぞれの作業をしています。
少し飛躍しますが、それらの行為は「日常」という概念に抽象化できるのではないでしょうか。(日常の定義は省略)
日常は過ごし方が変わったとしても日常です。
言葉遊びのようですが、加齢によって日常という概念が変わることは無く、変わるのは環境だけだということです。
学術的なことは分かりませんが、人は言葉を用いて思考するため、
言葉や概念に思考が影響を受けるというのは自然な発想ではないでしょうか。

2つ目は、最も関心のある変化は自分の成長であるという点です。
これは、成長が1次関数だと思ってたらn次関数だったみたいな感じです。
人は右肩上がりで成長し続けられませんよね。
それどころか、落ちたり上がったりを繰り返してます。
分かり易いところだと筋力で、筋トレをサボるとすぐに落ちます。
小さい頃は何もしてないつもりなのに自然と筋肉が付きます、そして落ちません。

人が成長を実感するのは、ピーク時と比較してそれを上回っていた時ではないでしょうか。
今のあなたは、学生の頃よりも体力があって賢くて大人な振る舞いをしていますか。
私は微妙です。言動が少し老いたかなぁという程度です。

また、大人な振る舞いという言葉を使いましたが、大人とは何なのでしょうか。
私は、「自分が思い描く成長した姿」のことを指すのではないかと思います。
大人とは模範となる人間であり理想像なのです。
つまり、人は誰かに取っての大人になることは出来ても、自身が大人になることはできないのではないでしょうか。
理想は叶えられないからこそ理想なのではないか、という考えです。

まとめ
これらを踏まえた私の結論が以下になります。
* 「日常」と「成長の停滞」が 変わらぬ日々 の正体、毎日は変わっている。
* 歳を重ねても大人にはなれないし、人は一生大人になれない。

今年は日々の些細な変化を大切にする一年としたいです。
なので頑張って日記を付けます。

※本文の主張は学術的根拠に基づくものではなく、全て自論です。